××のつくりかた

自分のつくりかた

自分の特性を知ろう

途中でブログが消えたので、端折る。

 

自分の特性を知ろう。ツールは一杯ある。

自分の特性、つまり自分がどんな環境に身をおけば、モチベーションが上がるのか知っておけば、自分自身をコントロールできるようになる。

 

おすすめのツールは3つ。

 1.ストレングス・ファインダー

 2.エニアグラム

 3.FFS診断

もう面倒だから、説明は飛ばす。

 

自分の結果だけ言うと、

1.ストレングス・ファインダー

 1.戦略性

 2.収集

 3.内省

 4.原点思考

 5.回復思考

 

2.エニアグラム

 タイプ5の研究者とタイプ4の芸術家が同じ点数

 

3.FFS診断

 1.弁別性

 2.保全

 3.拡散性

 4.受容性

 5.凝縮性

 

これらの診断を見るだけで、

「自分は戦略とか【考える】という行為が強みなんだ。逆を言えば、実行力は結構弱みだなぁ」

と分かってくる。

戦略とか情報収集とか研究者という単語だけで、分かってくる。

 

これら3つのツールにプラスして、

1.マーティン・セリグマンの理論

2.リンクアンドモチベーションのエンゲージメント分類

などは参考になる。

 

具体的に言うと、

1.マーティン・セリグマンの理論というのは、最近出版された「モチベーション革命」に載っていた、心理学者のマーティン・セリグマンが提唱した理論で、

「人の欲望は5つに分類される。

 1.達成欲

  2.快楽  

 3.意味合い  

 4.人間関係  

 5.没頭」

と唱えている。

この分類された中で、自分が今までモチベーションが上がった瞬間ってどんな時だろうと考えると、自分の中でしっくりくるものがある。

自分の場合、「没頭」と「人間関係」だったりする。

 

2.リンクアンドモチベーションのエンゲージメント分類というのは、先日リンクアンドモチベーションの麻野さんの話を聞く機会があり、その際に教えていただいた分類だが、

「人が組織にエンゲージメントを示す背景には4つあって、

 1.目標の魅力(理念やブランド)

 2.活動の魅力(業務内容)

 3.組織の魅力(風通しの良さや経営陣の魅力)

 4.待遇の魅力(給与や設備)

と分類される」

この分類も同じく自分がモチベーション上がった時はどんな時かと考えると、自分が自分自身に用意すべき環境の条件が分かってくる。

これも自分の場合、「活動の魅力」と「組織の魅力」だった。

 

このように色々なツールやフレームワークを用いて、自分自身を分析してみると徐々に自分のモチベーションが上がる環境がどのような環境なのか分かってくる。

 

自分の場合だと、

「責任感や使命感ではなく、自分が魅力的だと思える人の下で好きなこと(情報収集して戦略を考える)ができる環境を整えたら、モチベーションは上がりそうだ」

という仮説を立てることができる。

 

今後「個人の時代」に徐々に変化していく中で、個人としてのモチベーションを最大化して、大きなパフォーマンスを上げることはより重要度が増してくるだろう。

 

最近、就活生含めてキャリア系の相談が増えてきたので、なんかしようかな

【感想】「モチベーション革命」(尾原和啓著)

f:id:takahashi-kobe-2013:20170930235811j:plain

最近というか、就職活動で自己分析というものが求められてから、何かにつけ自分で「自分は何が好きなんだろうか」「どうやったら自分の好きが仕事になるんだろうか」ということを考えていた。

 

それで少しづつ色んな人の話を聞いたり、色んなことをやらせてもらうにつれて、徐々に自分の中で好きなことや得意なことが朧気ながら形をおびてきている最中だった。だが、働いてみると「本当に好きに仕事になるんだろうか」という不安と、加えて先日のエントリーでも書いていたがビジネス的な人間関係の違和感が付き纏うように最近はなっていた。

 

この本を読むことになったのは、NewsPicksのアカデミア会員だったから(1期から会員なのにアンバサダーの連絡が来ておらず、憤慨している件は置いておく笑)。それで読んでみて、冒頭から共感してしまった。

 

 出世するため、お金のため、モテるため、美味しい食事やワインを楽しむために、人生まるまる仕事に捧げる上司をみて、「自分はこうはなれない」「自分はこうはなりたくない」と思ったことはないでしょうか。

 

ある。笑

 

というか、「なんで頑張れるんだろう?」「それで何が待ってるの?」と思う自分がいる。この本の中にも書いてあるが、自分は「日本一になる」という目標を掲げられても、「日本一になってどうなるの?」と思ってしまう方の人だ。

 

そんな冒頭から始まり、一気に吸い込まれるように読んでいった。特に印象に残ったところを自分なりの解釈を交えて書いていくと、まず惹かれたのは冒頭にも書いた「自分の好きでお金を稼ぐのは甘い考えではないか」という不安に対しての回答があった部分だ。

 

本著では「好き(この本では「偏愛」や「嗜好性」、「歪み」とも言っている)」を仕事にすることに関して述べられており、人間の欲望を

達成

快感

意味合い

良好な人間関係

没頭

に分類されることを元に、大体80年代までと80年代以降で主要な欲望が「達成や快楽」から「意味合いや良質な人間関係、没頭」に変化していることをその背景を含めて説明している。そこにはもちろんこれからは「偏愛」が人間の価値になるということも書かれており

 

人工知能にも代替不可能なもの...それは「嗜好性」です。簡単に言えば、「私は誰になんと言われても、これが好きだ」という偏愛です。人が頭で考えて、答えを出せるようなものは、人工知能の方がより優れた答えを早く出せるようになります。一方で、人の嗜好性は、非常に非効率的なものなのです。

 

ただ「好きなことをやればいいじゃん」という一辺倒の主張をする本と違い、このように時代の流れから「嗜好性」の必要性を説いており、自分の疑念が肯定された気がして安心感を覚えた。それと同時に自分と他の人の欲望の志向性の違いを理解できた。

 

また本書は人間関係、特に信頼関係に関しても言及しており、

 

 違いを認め合うことと同じくらい重要な事があります。それは、「相手を信頼して任せる」ことです。なぜなら、メンバーやパートナーをいちいち疑って、信頼できずにいると、その分動きが鈍くなってしまうから、他者より1秒でも早くイノベーションを起こさなればならないときに、その都度相手を信頼しないまま立ち止まっていると、それが積もり積もって大きな時間の差を生んでしまうのです。

 

というように、「嗜好性」と同様、「信頼関係」の必要性においても社会的背景から説明がされている。

 

社内でのコミュニケーションをコストとして捉える企業はたくさんある。確かに、集中している時にかかってくる電話などはコストになっている。しかし、互いの違いや強みを理解するためのコミュニケーションまでコストとして捉える組織は、変化が激しくなる時代の中で生き残っていけない。互いの得意や嗜好性を理解した上で、信じて任せる。ビジネス的な人間関係、言い換えれば、嗜好性や得意を共有しない関係は、ノベーションを起こせない。そんなことをこの本を読みながら感じた。

 

 

あまり書きすぎるとネタバレになってしまうので、あまり内容について書かないが、この本は冒頭に書いた「自分の好きを仕事にしてもいいんだろうか?」という不安や「社内のビジネス的な関係性」に違和感に対して背中を押してくれるとともに、気付きを与えてくれる本で今の自分に刺さりまくった本だった。

言葉にすればいいってもんじゃない

なんか言葉すると分かった気になる。

いや本当に分かっている時もあるんだけど、分かった気になるのがほとんどだ。

 

「あの人ってさぁ、やっぱ短気だからさぁ」

「あの人の作品って、ストーリーとかじゃなくて魅せる作品だからさぁ」

そんなコメントを見たり、口にすると分かった気になる。ある種の分類に入れてしまった途端に新鮮味を失い、もっと深掘って聞いてみようという意欲がなくなる。

 

「分かる」とは「分けること」であり、この情報が溢れかえった時代に情報を処理する、つまり「分ける」ことは頭の中のCPUを守るためにも必要な力だ。

 

ただそれは自分を情報の波から守るための話であって、自分が波を作る側だったらどうだろうか。つまり情報を、コンテンツを発信する側だったら分かった気で、広く浅く情報を処理していていいのだろうか。

 

作品のメッセージも人の本質も知らず、自分の中で何もメッセージがない人が、人々に刺さるコンテンツを発信できるのだろうか。

 

そんなことはないんだろう。表現したい何かがあって、言語化できないけど何故か伝わる。一度や二度では「分けられない」何かがあって、人を感動させたり、動かしたりする。

 

その作品やその人の本質があって、人を感動させることができる。自分の中に「核」といわれるものがない人に何も伝わるものはない。伝わるのは中身のない情報だけだ。

 

自分の中の「核」を見つけるためには、時間が必要で、それも1つのことに集中して初めて少しずつ形を帯びてくる。広く浅くやっても何も出てこない。本質を見つけるまで、時間をかけ途中で挫折しそうになりながら見つけるものだ。

【感想】新しい分かり方 (佐藤雅彦著)

10月のコルクラボの課題図書として、最近出版された佐藤雅彦さんの「新しい分かり方」が紹介された。

 

早速、渋谷の書店に行き購入して、昨日今日で読んでみた。

 

はじめ、本を開いた時は少し驚いてしまった。先月の課題図書が文字びっしりの書籍だっただけに、覚悟して本を開いたら写真が2枚。そこには文字は一言もない。ただそこには自然と「解釈」が生まれた。

 

読み進めていくほどに引き込まれていった。自然と「解釈」し、「分かる」自分がいたし、解釈を考えようとする自分がいた。

 

そして、この本の面白いと思ったのはそのような解釈を自然としてしまった「体験」を「体験」で終わらせない点だ。その解説があり、さながら美術館や科学館のようだった。

 

ここまでの話を読むと「画集かな?」と思うのだけど、そうではない。ハードカバーの本で、さながら画集とは思えないし、画集とも構成が異なっている。僕はそこに「この本は『本』じゃない」とも思った。

 

この本は『本』の持つ固定概念を外して、

「本はメディアの1つであり、コミュニーケーション手段なんだ」

と再認識させてくれる。

もっと砕いて、

「本は『紙を用いて、コミュニケート(意思伝達)するメディア』なんだ」

と気付かせてくれる。

 

詳しい内容は差し控えるが、

・『紙を用いて、コミュニケート(意思伝達)するメディア』を使う

佐藤雅彦さんが伝えたいメッセージ(意思)を伝える

という前提に立った時に、「最も伝わる方法は何か」を考え抜かれていると本だと感じた。

 

いかにメッセージを送る側に情報を「自分ごと」にさせるか、そのヒントがこの本にはある。

 

 

 

またこの本を読んだ時に思ったのが、「リアル脱出ゲーム」と「ナーチャリング」である。

 

リアル脱出ゲームは、「体験」を通してストーリーの良さや設計者の意図をメッセージとして理解する。今まで体験は、非日常というかハレのものだと思っていた。しかし、今回の体験は「本」という日常の延長にあったのだ。確かに体験を通じたコミュニーケーションという意味では同じかもしれないが、そこには新たな気付きが確かに存在した。

 

もう1つの「ナーチャリング」とは、Webマーケティング用語の1つで、簡単に言うと「潜在ユーザーを育成して、顕在ユーザーにすること」でコンテンツマーケティングの用語として使われる。

分かりやすい例としては、会員登録して会員になった人に対して定期的にメルマガなどを送り、関心度を上げていくのはナーチャリングの1つである。

ナーチャリングとは、先ほど説明したが「Aという商品が欲しい」や「Aということがしたい」というニーズを顕在化、つまりその人自身に認識させることである。これはつまり、Aというものを「自分ごと」にさせるのがナーチャリングなのだ。(厳密には「自分ごと化」させる手法の1つがナーチャリング)

 

そうすると、今回の本で「自分ごと化」させるために「体験」と「解説」という手法を用いたが、同じように既存のコンテンツマーケティングの領域にも「体験」と「解説」は活用可能なんじゃないか。

 

 

 

話が少し逸れてしまったが、今回の本を通して

・本というのはメディアであり、コミュニーケーションの手段

・体験を通して、情報を自分ごと化させるコミュニーケーションの可能性

であることを深く感じると同時に、メッセージ・テーマのあるメディアの美しさを再認識した。

 

だからこそ書籍でも、イベントでも、コミュニティでも、メッセージやテーマの必要性を改めて感じ感じた。

「個」の時代のヒト・モノ・カネ

経営の三大資産(?)としてよく、ヒト・モノ・カネと言われている。ごくごく当たり前のお話で、会社を存続するためにはヒトという労働力とモノという事業、製品・サービスと言った方が分かりやすいか、カネという売上・利益が必要になる。

 

まぁ当たり前の話で何の気づきもないんだけども、最近よくよく言われるというか、数年前から言われてる「個」の時代って考えると経営の三大資源はこれからは個人にも必要になるし、もっと言えば経営のために必要なものが個人にも必要になるとも言える。

 

まぁもうちょい分かりやすく説明するために、そもそも「個」の時代の説明からすると、よく使われている文脈では、

これからは「企業」の時代ではなく、「個」の時代だ

なんて言われる。これは凄い極論も含め簡単に言えば、個人事業主として生活する人が主流になる時代ということで、みんなニートというわけではない

 

なぜそうなるのか、という話は一旦置いておいて、個人事業主になるということは、つまり個人が事業を行う、経営者になるということだ。当たり前だけど、経営者になればヒト・モノ・カネについて必要最低限食っていけるように知識をつける必要がある。

 

だからみんなヒト・モノ・カネの知識を付けないとねみたいな終わり方でもいいんだけど、本当はそっちではなくて、ヒト・モノ・カネって個人に当てはめた時に別の捉え方があるんじゃないか?というのが今回のテーマ

 

よくヒト・モノ・カネっていうのは、「目標(やりたいこと)があって、その目標を達成するための手段」として挙げられる。理念や事業目標を達成するための手段と言った方が分かりやすいだろうか。

 

ただ個人に当てはめた時に「目標(やりたいこと)を見つけるための要素」として、ヒト・モノ・カネがあるのではないか。

 

人間がやりたいことを見つけた時、好きなことを見つけた時というのは、結構シンプルで「気づいたら長期間やっていた時」だ。何時間も何日も何カ月も誰からも強制されることなくやっていて、ある日ふと立ち止まり、振り返る時に気づく。

「あぁこれが好きだったんだ」

何かしら1つでも好きなことがある人はこの感覚があると思う。

 

その前提に立った時に、好きなこと、やりたいことが見つからなくなる原因は何かと言うと、

継続してやりたいのに、途中でやりたいことが邪魔される

時だ。

 

ふと振り返った時に人はそれを好きだ、と気づくが、気づくまでの間の気持ちは脆く、崩れやすい。まだ興味や関心であったりする場合が多い。だからちょっとしたことでその「好き」になる種は壊れてしまう。

 

そな「好き」の種を壊してしまうのが、ヒト・モノ・カネのヒトカネだ。

具体的には、ヒトでいうと人間関係だ。

「ゲームをやりたいんだけど、親に怒られるからやめよう」

「ホントはAという案の方が良いと思ってるけど、上司に嫌がられるしやめとこう」

 またカネは分かりやすく生活費だ。

「ホントは村上春樹の新刊読みたいんだけど、今月ピンチだからやめよう」

 

こういったふと脳裏によぎるネガディブな感情により、せっかくの「好き」の芽が摘み取られてしまう。ヒトやカネの面で問題なかったら、あるモノが好きになっていたはずなのに。

 

なので、まとめるともし好きなことややりたいことが見つからないなら、ヒト・モノ・カネの問題を解消することだ。見つけるまでの過程としては、

1.あるモノに興味・関心を持ってやってみる

2.カネやヒトの問題が起こらず、長期的にやり続ける(それは「やりたいからやる」のが前提)

3.ふとある時に「好き」を気付く

となる。幸いにも1.の「興味・関心」に関しては、世の中は情報に溢れているから興味関心は起こりやすい。だから問題はいかにカネやヒトの環境を整えておくのかという点だろう。

虚像を追う

『将来自分が成し遂げたいことは?』

 

こんな質問、小学校の卒業と就職活動でしか問われない。

だけど、全く成し遂げたい目標がなかったとしても形にすることが求められる。

 

そんな存在もしない目標を否定され、詰められ、修正される。

挙句、その尤もらしく作り上げられた”虚像”を真実として取り扱われる。

 

取り扱う側も取り扱われる側も”虚像”と分かっているのかもしれない。

分かっていてなおリアルとして扱うのである。

その姿は一種の舞台を見ているようである。

 

では私たちは何を追えばいいのか。

自分の中に正像があるならば、それを追えばよい。

問題は正像が^ ^ない場合である。

 

それに対しての私の回答は「追わなくてよい」だ。

ないと分かっているだけでも、虚像を虚像として気付いていない人に比べたら一歩先に行っている。

ないなら、とりあえず好き方向に歩けばいい。

いつか正像を見つけられるかもしれないから、とりま歩けばいいんじゃないか。

今求められることと将来求められることの間

事業や人の分析方法としてwill,can,must(needs)という分類による分析方法がある。

キャリアの歩み方としてのneedsの捉え方が今回の話である。

 

"needs"とは簡単に言えば、「社会が求めていること」。

なにか事業を起こすにしても、お金を社会から貰う以上は社会が求めていることと提供するものが合致していないと貰いようがない。

 

そしてそれは人のキャリア形成でも同じで今髷の結い方を知っていたところで社会は髷の結い方を求めていない(エンタメとしてはあるかもしれないが)ので、お金をいただくこと、キャリアを形成することは難しい。

 

そのようにキャリアを形成する上でのneedsの考え方を踏まえた上で、考えておきたいことは、「将来的に社会が求めることと現在社会が求めていることのバランスを見極めて、タイミングを考えよう」という話である。

 

社会が求めていることは常に変わってしまう。先ほどの髷の結い方にしても、江戸時代であれば社会は求めていたであろう。しかし明治時代になればその需要は徐々に減少し、最終的に現在では0に等しい状態になっている。

 

これと同じように現在は社会に求められているが、将来的に必要なくなってしまうことが現在数多く存在する。例えば、HTMLやCSSで簡単なHPを作成する技術は一見必要性があるように見えるが、WordPressなどのSaaSの開発や途上国の安価な労働確保が進むとしたら将来的な需要は限りなく低いであろう。

大学に行くこと、つまり「学歴」も将来的な需要を考えたら必要性は低くなるであろう。

 

しかし、だからといって今大学に行かないという選択ができるかと言われば、そうもいかないのが難しいところである。