××のつくりかた

大学生のような、大学生でないような。 そんな人間が僕のつくりかたを書いています。 僕をつくりたい方は読んでやってください。 基本は反面教師的に読んでください。

【感想】新しい分かり方 (佐藤雅彦著)

10月のコルクラボの課題図書として、最近出版された佐藤雅彦さんの「新しい分かり方」が紹介された。

 

早速、渋谷の書店に行き購入して、昨日今日で読んでみた。

 

はじめ、本を開いた時は少し驚いてしまった。先月の課題図書が文字びっしりの書籍だっただけに、覚悟して本を開いたら写真が2枚。そこには文字は一言もない。ただそこには自然と「解釈」が生まれた。

 

読み進めていくほどに引き込まれていった。自然と「解釈」し、「分かる」自分がいたし、解釈を考えようとする自分がいた。

 

そして、この本の面白いと思ったのはそのような解釈を自然としてしまった「体験」を「体験」で終わらせない点だ。その解説があり、さながら美術館や科学館のようだった。

 

ここまでの話を読むと「画集かな?」と思うのだけど、そうではない。ハードカバーの本で、さながら画集とは思えないし、画集とも構成が異なっている。僕はそこに「この本は『本』じゃない」とも思った。

 

この本は『本』の持つ固定概念を外して、

「本はメディアの1つであり、コミュニーケーション手段なんだ」

と再認識させてくれる。

もっと砕いて、

「本は『紙を用いて、コミュニケート(意思伝達)するメディア』なんだ」

と気付かせてくれる。

 

詳しい内容は差し控えるが、

・『紙を用いて、コミュニケート(意思伝達)するメディア』を使う

佐藤雅彦さんが伝えたいメッセージ(意思)を伝える

という前提に立った時に、「最も伝わる方法は何か」を考え抜かれていると本だと感じた。

 

いかにメッセージを送る側に情報を「自分ごと」にさせるか、そのヒントがこの本にはある。

 

 

 

またこの本を読んだ時に思ったのが、「リアル脱出ゲーム」と「ナーチャリング」である。

 

リアル脱出ゲームは、「体験」を通してストーリーの良さや設計者の意図をメッセージとして理解する。今まで体験は、非日常というかハレのものだと思っていた。しかし、今回の体験は「本」という日常の延長にあったのだ。確かに体験を通じたコミュニーケーションという意味では同じかもしれないが、そこには新たな気付きが確かに存在した。

 

もう1つの「ナーチャリング」とは、Webマーケティング用語の1つで、簡単に言うと「潜在ユーザーを育成して、顕在ユーザーにすること」でコンテンツマーケティングの用語として使われる。

分かりやすい例としては、会員登録して会員になった人に対して定期的にメルマガなどを送り、関心度を上げていくのはナーチャリングの1つである。

ナーチャリングとは、先ほど説明したが「Aという商品が欲しい」や「Aということがしたい」というニーズを顕在化、つまりその人自身に認識させることである。これはつまり、Aというものを「自分ごと」にさせるのがナーチャリングなのだ。(厳密には「自分ごと化」させる手法の1つがナーチャリング)

 

そうすると、今回の本で「自分ごと化」させるために「体験」と「解説」という手法を用いたが、同じように既存のコンテンツマーケティングの領域にも「体験」と「解説」は活用可能なんじゃないか。

 

 

 

話が少し逸れてしまったが、今回の本を通して

・本というのはメディアであり、コミュニーケーションの手段

・体験を通して、情報を自分ごと化させるコミュニーケーションの可能性

であることを深く感じると同時に、メッセージ・テーマのあるメディアの美しさを再認識した。

 

だからこそ書籍でも、イベントでも、コミュニティでも、メッセージやテーマの必要性を改めて感じ感じた。

「個」の時代のヒト・モノ・カネ

経営の三大資産(?)としてよく、ヒト・モノ・カネと言われている。ごくごく当たり前のお話で、会社を存続するためにはヒトという労働力とモノという事業、製品・サービスと言った方が分かりやすいか、カネという売上・利益が必要になる。

 

まぁ当たり前の話で何の気づきもないんだけども、最近よくよく言われるというか、数年前から言われてる「個」の時代って考えると経営の三大資源はこれからは個人にも必要になるし、もっと言えば経営のために必要なものが個人にも必要になるとも言える。

 

まぁもうちょい分かりやすく説明するために、そもそも「個」の時代の説明からすると、よく使われている文脈では、

これからは「企業」の時代ではなく、「個」の時代だ

なんて言われる。これは凄い極論も含め簡単に言えば、個人事業主として生活する人が主流になる時代ということで、みんなニートというわけではない

 

なぜそうなるのか、という話は一旦置いておいて、個人事業主になるということは、つまり個人が事業を行う、経営者になるということだ。当たり前だけど、経営者になればヒト・モノ・カネについて必要最低限食っていけるように知識をつける必要がある。

 

だからみんなヒト・モノ・カネの知識を付けないとねみたいな終わり方でもいいんだけど、本当はそっちではなくて、ヒト・モノ・カネって個人に当てはめた時に別の捉え方があるんじゃないか?というのが今回のテーマ

 

よくヒト・モノ・カネっていうのは、「目標(やりたいこと)があって、その目標を達成するための手段」として挙げられる。理念や事業目標を達成するための手段と言った方が分かりやすいだろうか。

 

ただ個人に当てはめた時に「目標(やりたいこと)を見つけるための要素」として、ヒト・モノ・カネがあるのではないか。

 

人間がやりたいことを見つけた時、好きなことを見つけた時というのは、結構シンプルで「気づいたら長期間やっていた時」だ。何時間も何日も何カ月も誰からも強制されることなくやっていて、ある日ふと立ち止まり、振り返る時に気づく。

「あぁこれが好きだったんだ」

何かしら1つでも好きなことがある人はこの感覚があると思う。

 

その前提に立った時に、好きなこと、やりたいことが見つからなくなる原因は何かと言うと、

継続してやりたいのに、途中でやりたいことが邪魔される

時だ。

 

ふと振り返った時に人はそれを好きだ、と気づくが、気づくまでの間の気持ちは脆く、崩れやすい。まだ興味や関心であったりする場合が多い。だからちょっとしたことでその「好き」になる種は壊れてしまう。

 

そな「好き」の種を壊してしまうのが、ヒト・モノ・カネのヒトカネだ。

具体的には、ヒトでいうと人間関係だ。

「ゲームをやりたいんだけど、親に怒られるからやめよう」

「ホントはAという案の方が良いと思ってるけど、上司に嫌がられるしやめとこう」

 またカネは分かりやすく生活費だ。

「ホントは村上春樹の新刊読みたいんだけど、今月ピンチだからやめよう」

 

こういったふと脳裏によぎるネガディブな感情により、せっかくの「好き」の芽が摘み取られてしまう。ヒトやカネの面で問題なかったら、あるモノが好きになっていたはずなのに。

 

なので、まとめるともし好きなことややりたいことが見つからないなら、ヒト・モノ・カネの問題を解消することだ。見つけるまでの過程としては、

1.あるモノに興味・関心を持ってやってみる

2.カネやヒトの問題が起こらず、長期的にやり続ける(それは「やりたいからやる」のが前提)

3.ふとある時に「好き」を気付く

となる。幸いにも1.の「興味・関心」に関しては、世の中は情報に溢れているから興味関心は起こりやすい。だから問題はいかにカネやヒトの環境を整えておくのかという点だろう。

ざわざわする何か


会社なるものに勤め出して2ヶ月経つが、未だに所属感というか「自分はここに居ていいんだ」と安心できない。社員数は比較的少なめだし、ドライとは言えない空気感。
でも、自分は受け入れられていると思えない。

なぜか。

ふと考えてみると、組織のあり方として仕方のないことなのかもしれないと思えてきた。
自分の会社は所謂ベンチャー企業で設立してから間もない。ましてや社員のほとんどは営業出身だ。

そうなると、やはり特性として自律的・個人的な人が多くなり、それが組織の色としても現れてくる。別に自律的な集団が特段悪いわけではない。経営者としては勝手に自走してくれるのだから、有難い限りだろう。

しかし、組織としての安心感は形成されない。そこに所属して得られるものは達成感と給料だけ(もしかしたら達成感も満足に得られないかもしれないが)。
そんな組織でもある程度割り切って「給料のため」、「生活のため」と考えれば何とかなる。それにそのように割り切って仕事する人も少なくないはずだ。

でも、自分はそうやって割り切って仕事をすることをしたいとは思わない。仕事とプライベートの境目を作りたくない。全てプライベートの延長で考えたいし、プライベートで何かするなら信頼できる人と好きなことをしていたい。

なぜ我慢しないといけないのか。我慢なんてしても、好きで同じ仕事しているやつに敵わない。戦う前から負けるとわかっている戦に何故行くんだろう。

どうせやるなら好きで勝てるかもしれない戦に行きたいものだ。

虚像を追う

『将来自分が成し遂げたいことは?』

 

こんな質問、小学校の卒業と就職活動でしか問われない。

だけど、全く成し遂げたい目標がなかったとしても形にすることが求められる。

 

そんな存在もしない目標を否定され、詰められ、修正される。

挙句、その尤もらしく作り上げられた”虚像”を真実として取り扱われる。

 

取り扱う側も取り扱われる側も”虚像”と分かっているのかもしれない。

分かっていてなおリアルとして扱うのである。

その姿は一種の舞台を見ているようである。

 

では私たちは何を追えばいいのか。

自分の中に正像があるならば、それを追えばよい。

問題は正像が^ ^ない場合である。

 

それに対しての私の回答は「追わなくてよい」だ。

ないと分かっているだけでも、虚像を虚像として気付いていない人に比べたら一歩先に行っている。

ないなら、とりあえず好き方向に歩けばいい。

いつか正像を見つけられるかもしれないから、とりま歩けばいいんじゃないか。

今求められることと将来求められることの間

事業や人の分析方法としてwill,can,must(needs)という分類による分析方法がある。

キャリアの歩み方としてのneedsの捉え方が今回の話である。

 

"needs"とは簡単に言えば、「社会が求めていること」。

なにか事業を起こすにしても、お金を社会から貰う以上は社会が求めていることと提供するものが合致していないと貰いようがない。

 

そしてそれは人のキャリア形成でも同じで今髷の結い方を知っていたところで社会は髷の結い方を求めていない(エンタメとしてはあるかもしれないが)ので、お金をいただくこと、キャリアを形成することは難しい。

 

そのようにキャリアを形成する上でのneedsの考え方を踏まえた上で、考えておきたいことは、「将来的に社会が求めることと現在社会が求めていることのバランスを見極めて、タイミングを考えよう」という話である。

 

社会が求めていることは常に変わってしまう。先ほどの髷の結い方にしても、江戸時代であれば社会は求めていたであろう。しかし明治時代になればその需要は徐々に減少し、最終的に現在では0に等しい状態になっている。

 

これと同じように現在は社会に求められているが、将来的に必要なくなってしまうことが現在数多く存在する。例えば、HTMLやCSSで簡単なHPを作成する技術は一見必要性があるように見えるが、WordPressなどのSaaSの開発や途上国の安価な労働確保が進むとしたら将来的な需要は限りなく低いであろう。

大学に行くこと、つまり「学歴」も将来的な需要を考えたら必要性は低くなるであろう。

 

しかし、だからといって今大学に行かないという選択ができるかと言われば、そうもいかないのが難しいところである。

目標の無意味性


就職活動を行っていると、常にオチのように次のような質問が飛んでくる。

 

「あなたは将来どのような大人になりたいですか?」

 

毎度毎度お疲れ様ですと思いながらその場は論理的整合性の取れた回答を作って話すのだが、毎回思うのは「将来像なんかないだろう」ということだ。

況してや環境が目紛しく変化する時代において、相当普遍性が高い目標を置かない限りその目標とする姿は陳腐化してしまうリスクがあるのだから将来像を決めることはリスクとさえ思っていた。

 

そうした漠然とした疑問を整理してくれたのが、下記の記事である。

 

wpb.shueisha.co.jp

最近メディアへの露出が増えてきた落合陽一氏のインタビュー記事である。

 

簡単にまとめると、

 

これからは「将来俺は〇〇になる/をする」という具体的動機が初めにあって、そこに向けて苦しみながら耐え、最後は成就する型ではうまくいかない。
目の前に存在するものをひたすらにこなしていき、その連続・積み重ね型が結果的に大きな成果をもたらす。

というのも、現代のテクノロジーの進歩は凄まじく、人が何年もかけて技術を習得しようとしても、習得過程でコンピューターに追い抜かれてしまうからである。

人間はテクノロジーと人間との間に落ちている即時的な偶発性を拾ってキャリアを組むしかない。

このことから言えるのは、「とにかく今自分が興味のあるものを始めて、幾つもそれを積み上げていく」こと

 

ということが述べられている。

落合氏はこれを「わらしべ長者的なキャリア」と述べている。

適切な思考と行動のバランス

人は睡眠以外の時間に行う作業を大きく分類すると、

思考の時間と行動の時間に分類される。

 

ドブ板営業でひたすら電話掛けたり、コンビニやスーパーのレジ打ち等は「行動」としての作業に近いものだと言える。

逆に商談に行く前に先方の顧客の課題や将来性を見出したり、映画や小説の評論をするのは「思考」としての作業に近いものだと言える。

 

あえて思考作業に「近い」と言ったのは、完全に0/1で分けることが難しく、バランスの問題だからだ。

テレアポにしても相手の声色に合わせたり、ヒアリングするなど「考える」こともある。逆に書評なども骨子さえ作れば「手を動かすだけ」のこともある。

 

 

このようなバランスがあることが前提として言いたいのが、

「自分が最も快適に過ごせる思考と行動のバランスを探そう」

ということである。

 

人によってはひたすらレジ打ちしている、つまり思考と行動の比率が2:8ぐらいの作業が快適だと感じる人もいる。逆に批評のように比率が8:2が快適だと感じる人もいる。

 

だからもしストレスない生活を送りたい人は自分だけの思考と行動の黄金比を見つけてほしい。