××のつくりかた

自分のつくりかた

切り分けた先にある虚無感

自分はどういう習慣か急に立ち止まり「自分何やってんだろ」「いやメッチャ熱中してるけど大丈夫なのか」と考え込む癖がある。

 

いわゆる「内省」というやつなんですけど、これが結構厄介。

いわゆる熱中状態にあっても、常に俯瞰して見ているもう一人の自分がいて、隙あらば自分の下に降りてきて「なんでそんな熱中してるの?」「熱中してて大丈夫なの?」という問いかけをしてくる。

 

これに対して自分はその「問いかけ」に答えようと、行動を止めてしまう。

そして考える。

 

確かに、「なぜ自分は熱中していたんだ?」と考えて、「なるほど!自分が××だからか」と分かることは自己理解が進んで一時的に楽しい反面、その後とてつもない虚無感に苛まれる。

 

「自分が××だから、これに熱中している」と分かった途端に、自分が何か「人間味」を失っている気がする。

 

自己理解が進めば進むほど、××という側面、○○という側面、...というように切り分けられ、「あの人と一緒の側面を持っているんだ。」という、「個性」を失っていく気がする。

 

「言葉にする」とは、「客観化する」ということであり、

「自分を言葉にする」とは、「自分を没個性にする」ということだと思う。