目標の無意味性
就職活動を行っていると、常にオチのように次のような質問が飛んでくる。
「あなたは将来どのような大人になりたいですか?」
毎度毎度お疲れ様ですと思いながらその場は論理的整合性の取れた回答を作って話すのだが、毎回思うのは「将来像なんかないだろう」ということだ。
況してや環境が目紛しく変化する時代において、相当普遍性が高い目標を置かない限りその目標とする姿は陳腐化してしまうリスクがあるのだから将来像を決めることはリスクとさえ思っていた。
そうした漠然とした疑問を整理してくれたのが、下記の記事である。
最近メディアへの露出が増えてきた落合陽一氏のインタビュー記事である。
簡単にまとめると、
これからは「将来俺は〇〇になる/をする」という具体的動機が初めにあって、そこに向けて苦しみながら耐え、最後は成就する型ではうまくいかない。
目の前に存在するものをひたすらにこなしていき、その連続・積み重ね型が結果的に大きな成果をもたらす。
というのも、現代のテクノロジーの進歩は凄まじく、人が何年もかけて技術を習得しようとしても、習得過程でコンピューターに追い抜かれてしまうからである。
人間はテクノロジーと人間との間に落ちている即時的な偶発性を拾ってキャリアを組むしかない。
このことから言えるのは、「とにかく今自分が興味のあるものを始めて、幾つもそれを積み上げていく」こと
ということが述べられている。
落合氏はこれを「わらしべ長者的なキャリア」と述べている。